こちらのページでは、私がGrahamSchoolに在籍していた頃の想い出を、思い出すままに書いて行こうと
思います。
昔のGrahamSchoolやCampany、段々想い出の中だけに存在しそして記憶からも消え去りつつあります。
あの頃お世話になった先生方、カンパニイメンバー、クラスメイト、クラスや舞台で経験したこと。
確かに存在した、あの古い建物とスタジオ。
知る人は日に日に減っていくのでしょう。そんなちょっとセンチな気分で、思いつくまま書き込みして行きたい
と、このページを作ってみました。
しばらく私の想い出にお付き合いいただければ、幸いです。 Reiko
私のSchool在籍時代は、まだアメリカの景気も良くMarthaも老いたりとはいえまだ元気だった時代でした。
Schoolの場所は今と同じ63rdSt.、2ndAv.と1stAv.の間にあり、一見普通のタウンハウスのように見える小さな
ビルでした。
入り口、ドアを正面にして、右側に小さな雑草だらけの庭。左側はスタジオの窓のある壁と、そのまた左側に
結構奥深い庭。
入り口を入るとすぐ右に二階への階段、その向かいにStudio2(通称SmallStudio)。少し進んだ左側に受付。
当時はケナンというベテランがおりました。斜め向かいが男子更衣室。
受付の少し奥に階段、CampanyOfficeへの階段でした。階段の先にはCampanyLounge、カンパニーメンバー
専用の休憩所。そしてその先突き当たりに、Studio1(通称BigStudio)
入り口横の階段を上ると、二階。上がってすぐの右が女子トイレ、並びにSchoolOffice、先の突き当たりに
講師更衣室が。
左は、少し奥まった所に女子更衣室、その手前に衣装部屋、あとOfficeの丁度向かいに小さなブティックが
ありました。女子更衣室脇に、飲み物の自販機がありました。男性たちもここでよく飲み物を買っていましたが
黒人のジョンだけは、いい家庭の出らしく、失礼だからといつも買うときには女性に頼んで買ってもらっていま
したっけ。
三階に上がると、ここにはスタジオが一つあるだけ。Studio3(通称UpStairs、上のスタジオの意味)
Studio1 は基本的にレベル3と4のレッスンとカンパニーリハーサル。夜などはレベル1のクラスにも使用
されていました。
Studio2 は昼の初心者クラス(12:00からのショートクラス)と個人リハーサルに
Studio3 は朝のレベル1と2に、また夜のクラスにも使われていました。
朝のクラスは10:00から、昼のクラスは11:45(12:00からのショートクラス以外)夕方のクラスは16:00から
そして夜のクラスが18:00から。
朝はレベル3と1、昼はレベル4,2,1、夕方はレベル3、夜はレベル2と1でした。人数が少ない時は
合同クラスになることも。
私の住んでいたレジデンス(カソリックのシスターたちが、独身女性のみに、安く経営していた)は、School
から10分と近かったのですがやはり朝のクラスは、きつかった。特に夏冬のワークショップは朝のクラス
が9:00からで、バイトしていて帰りが夜中になると寝不足でひどくつらい思いでした。それがつまらない
クラスだったりすると、はっきり言って目も当てられませんでした。
根性入れてレベルアップ。レベル4まで行ったときは、本当に嬉しかった。
StudentPerformanceが開かれる時は、Studio1は舞台として、Studio2は楽屋として利用。
どのスタジオもすでにあちこち傷んでいて、特にStudio1の隅のほうの床には穴が開いて草が芽を出したり
もしていました。
それでも床の材質は、Marthaがこだわったと言うだけあって、素晴らしいものでした。日本の木造のスタジオ
の柔らかさに負けないほど、踊りやすく作られていました。脚に負担が掛からない、とても良い床でした。
勿論レッスンは、生演奏のピアノで行われます。ピアノもきちんとグランドピアノでした。それもとんでもなく
すごいメーカーのピアノで、最初かなりびっくりしたものです。
ピアニストと先生の相性が良いと、こちらもすごくレッスンしやすくなって生の音楽の有難さを知りました。
その代わり相性が悪いと、無残なことに・・・・・。
新人で下手なピアニストの演奏だと、場合によっては先生が演奏を止めさせたこともありました。
下手な演奏で間違える方が悪いと言った先生もおりましたが。
Grahamの基本エクササイズもコンビネーションも、結構変拍子が多かったのでダンサーもですがピアニスト
も大変だったと思います。
ある新人ピアニストは、自分もクラスを受けてコツを掴もうとしていました。
ちなみに、このピアニストに頼んで作って貰ったレッスン曲が、今私がクラスで使用している曲です。
StudentPerformanceは不定期に行われていました。
勿論出るにはオーディションを通過しなければなりませんでしたが。
学校に入ってほぼ1年が過ぎる頃、丁度オーディションが開かれ私も作品を出しました。幸い好評で、通過し
NYで初めての舞台となりました。この踊りは今でも私のレパートリーの一つになっています。自分でもとても
気に入っている作品です。
何かをやる時は、オーディションがつき物のアメリカです。勿論レベルアップするときも、許可が必要でした。
現在いるレベルの先生に、上のクラスを受けてもいいか聞き、OKならその旨上のクラスの先生に申告。
試しにそのクラスを受けさせてもらいました。クラス終了後に、結果を聞きに行きOKをもらえたら、予め
Officeで貰っておいた書類にサインをお願いし、それを今度は校長に提出。
晴れてレベルアップ完了です。
Grahamの作品は、感情的なものが多いのは有名ですが、そのせいかどうか学生たちも結構感情むき出し
のところがありました。
レベルアップでもイジメが無いとは言えませんでした。
特にレベル4に上がった時、他の子から噂は聞いていたのですが、私もやられました。
まずクラスの始め、何であんたがここにいるの?みたいな目で見られ、コンビネーションの場所が違うと
難癖を付けられ、もっともこれは割りと仲の良かった子が庇いに入ってくれましたが。いや、実際彼女が
場所抜けしたために起こったトラブルだったのですが。
他にも、誰かが校長に呼ばれたのは何故か、とか。アンサンブル(セカンドカンパニー)のディレクターの
ユリコが誰かに話しかけていたのは、ひょっとして・・・・・・、とか。
騒がしい学校ではありました。緊張感はありましたけれど。
この頃不思議に思っていたことに、カンパニーメンバーは無料でクラス受講ができるのに何故他のスタジオ
で、別のクラスを受けているのだろう?がありました。
これは自分がGrahamのリハーサルに参加した時に、身をもって知りました。リハーサルでぶつかりあった
挙句、ピリピリしたクラスをまた受ける気にはなりません。私は、丁度Cunninghamにビザを切り替えていた
所だったので、そちらに避難いたしました。
話が飛びすぎました。
2年ほど経った頃、転機が訪れました。バートとの出会いでした。
4:00のクラスに知らない名前の先生が入っていたのです。バイトの無い日だったので、受けることにしました。
彼の第1声は今でも憶えています。
全員が座って最初のポジションをとると、彼は
Just follow me
とだけ言い、説明も無しに彼がアレンジしたフロアエクササイズを始めてしまったのです。
全員付いて行くだけで精一杯。幸か不幸か、言葉の壁のおかげで横目使いはお手の物。目で見て動く事
には慣れていましたので、何とか付いていくことが出来ました。ど真ん中の一番前に居たのですから、必死
でした。
不思議なことに(今となっては頷けることですが)彼のフロアエクササイズを受けた後、センターワークで
ターンアウトがひどく軽く働いたのです。彼は言いました。
Froat your chest
胸の力は、腹筋が正しく使われていれば抜けるもの。逆を言えば、胸の力を抜こうとすることで腹筋が働く
ことになったようです。
実際彼のクラスは、私がGrahamのエクササイズはこう使って行きたい、と思っていたやり方を具現したもの
でした。
私が彼のクラスと彼自身に夢中になるまでに、時間は掛かりませんでした。
私が教える身になって思うのですが、やはり自分を信じて付いてきてくれる生徒には目をかけたくなるもの。
彼も私をデモンストレーターとして、結構当てにしてくれるようになりました。
ちなみに、頼み込んで彼の教えていた校外の大学にまで、デモンストレーターとしてくっついて行ったりもしま
した。3ヶ月だけでしたが、私も良い勉強をさせてもらったと思っています。
その頃には学校中、私が彼に恋してることが知れ渡っていて、気づいていないのは当のバートだけ。
1度帰国しなければならなくなりそうだった時、思い切って告白しました。
無理なのはわかっていました。彼はゲイでしたし、当時すでにHIVポジティブ。エイズ初期の症状だったの
です。真面目な彼は、恋愛面での付き合いを全て断ち切ってました。
You will find other man,beter than me
とてもきちんと彼は答えてくれました。そしてその後、クラスの帰りなど私を誘ってお茶したり、食事に行った
りしてくれるようになりました。
その1年ちょっと後、私の帰国が本決まりになった時、これからはデモンストレーターがいないのか、そう
笑って言ってくれました。
日本に帰ってからも、年に1度はNYに行っておりました。その度に彼と連絡を取って会っていましたが、あれは
3回目でしたか。電話した私に彼はスキンキャンサー(エイズの症状、皮膚癌)が出たこと、教えも今は出来ない
こと、そしてこんな姿は見せられないから今は会えないと言ってきたのです。
無理にとは言えず、来年また(無理なのはわかっていました)と電話を切りました。
そして半年、友人が電話をくれました。
彼が亡くなったと。
すぐ飛んで行きたかったけれど、仕事もありました。そして仕事を休んで行ったとしても彼は喜ばないだろうと。
仕事などについてはとても厳しい人でしたから。
自分にとって、現実にしたくなかったのかもしれません。その年、NYに行った時友人達が彼のお葬式の式次第
を、私にと言って渡してくれました。
それを見たとき、私の中で彼の死が現実になったのです。
話が湿っぽくなってしまいました。でもこの先をお話していく上で、彼の名がしばしば出てくるもので。
悲しい話が続くようですが。
ある夏休み明け、スイスからの留学生モニカが学校に戻って来ないのを、皆が不思議に思いつつでも休み
を少し伸ばしているのだろうと考えていた時、新聞にトップニュースで彼女の名が出ました。
殺人事件の被害者として。
ルームメイトに殺されていたのでした。
その休み前、たまたまモニカと授業の話などしたのを憶えています。
学校中が大騒ぎになりました。特に校長のダイアンは、治安の悪い場所にしかもルームメイトを募集しなけ
ればアパート代が払えないような経済力の無い学生に資金を作りたい、そう考えてEmerjency Fund for Student
Dnsers(EFSD)を立ち上げました。
丁度天安門事件が前後して起きた時で、中国からの留学生が国に電話したくてもお金が足りない、等と言う
問題も起こっていたのです。
EFSDが今も機能しているかは知りませんが。最初は、Graham Cunnigham Ailey だったと記憶しています。
各学校でオーディションを行って、合同学生パフォーマンスを行いチケット代をEFSDの資金として集める、
というものです。チケット代は、学生パフォーマンスとしては異例の10ドルでした。
先に書いた、NYでの初作品となった小品をオーディションに出したところ、幸い受かって私も参加しました。